お正月などのお祝い事にも用いられる、漆塗りのお椀。あなたは何気なく使っていませんか?
実はその美しい色とふっくらとした肌艶の正体は、数千年前から日本人が育んできた「漆(うるし)の木」の恵みです。
しかし今、日本に流通する漆の国産割合はわずか1割未満。太古の昔から続いてきた、漆という樹木と人の暮らしの循環が途絶えようとしています。
そのような中、福島県・会津の里山において「耕作放棄地に漆の木を植え、百年かけて森に還していく計画」に挑む人々がいます。

人と共に生きてきた漆の木
漆は自然の中ではほぼ自生できず、人の手で丁寧に植え育てられる樹木です(※)。下草刈りやつる草の除去を続け、約15年かけてようやく1本から180mlほどの貴重な樹液が採れるようになります。
その漆液は一度固まると強い酸・アルカリ・アルコールでも溶けないほど強固であり、防腐・耐水性に優れ、抗菌作用も持つ、美しい自然塗料です。 縄文時代から人々はこの漆を木の素地に塗り重ね、食器や装飾品などをつくり出し、樹木の恵みを生活の道具として長持ちさせながら、共に生きてきました。日本で出土した最古の漆の木はおよそ1万2千年前にも遡ります。
(※)山に自生しているのはヤマウルシやツタウルシなど別の種類のものであることがほとんどで、それらの木からはほとんど樹液は採取できないそうです。

危機に瀕する日本の漆
しかし、昭和中期以降、漆器需要の衰退や経済性重視の影響を受け、育てるのに手間のかかる漆の木は減少し続けてきました。現在では、日本国内で使用される漆液のほとんどを中国などからの輸入に頼っていますが、海外でも職人の高齢化などが進んでおり、今後も安定的に生産されるかは未知数の面があるそうです。
加えて、現代の社会情勢において、漆を育て使う循環を守っていくためには、一元的な政策や漆器業界の自助努力だけでは難しい側面があります。
そこで福島県会津地域の里山において立ち上がったのが、「猪苗代漆林計画(いなわしろ うるしりん けいかく)」です。
この団体は、会津磐梯山と猪苗代湖に囲まれた美しい里山を舞台に、地域で漆器や農業に携わる仲間が中心となり、耕作放棄地を活用した漆の植林活動を行っています。
では、なぜ耕作放棄地に漆なのでしょうか? 今回はその秘密に迫ってみたいと思います。

会津ではじまった新しい動き
「猪苗代漆林計画」を始めたのは、福島県・会津地域に住んでいる、漆器プロデューサーの貝沼航(かいぬま・わたる)さん、漆器の塗師であり漆掻き職人である平井岳(ひらい・がく)さん、お米と伝統野菜の農家である土屋勇輝(つちや・ゆうき)さん、自然学校を運営する和田祐樹(わだ・ゆうき)さんの4人。
今回はその中の貝沼さんにお話を伺いました。
学生時代、文化人類学の研究とロックバンドの活動に明け暮れていた貝沼さんは、卒業後に移住した会津若松で漆器の工房を訪れました。そこで職人たちのものづくりに妥協しない「ロックな魂」に心を揺さぶられ、自ら「漆とロック」という会社を起業します。
漆という樹木の魅力に魅了され、国産漆を使った漆器ブランドの立ち上げを決意。2015年から「めぐる/めぶく」という素材循環型の漆器を企画し、運営しています。そして2022年には、地域の仲間たちと「猪苗代漆林計画」を立ち上げるに至りました。

「猪苗代漆林計画」のきっかけは、貝沼さん自身も2020年からの2年間、平井さんのもとで漆掻きの作業を経験したことでした。その中で、地域に残る漆の木の少なさを実感し、この仕事が次世代に受け継がれていかないのではないかという危機意識を強く持つようになったそうです。貝沼さんはこう語ります。
“自然素材への回帰・関心から、若手の漆器職人の中からも漆掻きに興味を持つ人が出てくるようになってきました。
しかし一方で、会津の地域においても、その資源である漆の木がないこと、そしてそれを植えようにも、地域の理解・協力も含めて「場所を探すのが困難」ということが、未来を見据えた時に最大の障壁となっていることを実感しました。”
一方で、ちょうど平井さんから漆掻きを習っていた頃、貝沼さんはもともと知り合いだった農家の土屋さんからこんな話を聞くことになります。
“集落では農家の高齢化が進み、農業を辞める人が増えている。そうすると若手農家のところには、近隣の農家から田畑が集まってくるようになる。しかし手放される畑は、条件の悪い、山のすぐそばの場所で、すでに何も植えていない耕作放棄地や休耕地であることが多い。しかし、そういった場所をそのまま放置しておくと更なる問題を引き起こすため、何も生産していないのに草刈りだけはし続けなければいけないということが起きている”、と。
つまり、貝沼さんや平井さんなど漆器に携わる側からすると漆の木を植える場所を探すのに困っていた一方で、土屋さんなど若手農家さんたちは、農作物は育てられないのに管理だけはしなければいけない少々困った土地が増えている、ということだったのです。
そこでこの3人が集まり、耕作放棄地に漆を植えてみては? という話が一気に盛り上がり、〝農業×工芸〟という新しいかたちでの漆の植栽活動がスタートしました。

農家さんが居ることでトラクターなどで一気に草刈りができて、貝沼さんや平井さんは漆の育成にかかる手間がとても楽になったと話します。一方で土屋さんもこれまで仕方なくやっていた耕作放棄地の管理作業に、目的とやりがいと仲間が生まれたと話します。
そして、綺麗に整備された見晴らしのいい漆林が、自然動物と人間とのゆるやかな境界線となり、集落に残る田畑への獣害などの問題も減らせるのではないかとメンバーたちは考えています。
「田畑を自然に還す」プロセスとして
江戸時代には百万本の漆の木があったと言われる会津。「猪苗代漆林計画」では、ここを再び漆の楽園にして、人々が自然と触れ合い、多様な次世代の担い手が学び育っていく場となることを目指しています。
そしてもうひとつ、「これまで人間が使ってきた土地を森や山に還していく」、その長いプロセスの第一歩として、耕作放棄地に漆を植えることを始めたと、貝沼さんは話します。
“これは、農家の土屋さんが最初に提唱してくれたことですが、江戸時代以降に人口が増えていく過程で、人々は自然の領域をどんどん人間の領域として広げていきました。それは中山間地の田畑においても同様です。しかし、これからはそのような土地を無理やり農地として守っていくのではなく、これまで人間が使ってきた場所を「自然に還していく」という考え方も大切になっていくと思います。”
一方で貝沼さんは、こうもおっしゃっています。
“でも、ただいきなり放置してしまうと、クマやイノシシ、サルなど獣たちの隠れ場所になってしまったり、ゴミの不法投棄場所になってしまったりして、いま農作物を育てている農地や農村にも困りごとが増えてしまいます。ゆるやかに自然に戻すプロセスとして、一旦「林」を挟むことで、自分たちが死んだ後、百年後くらいには森や山に戻っていく…そこまでを見据え、それをみんなと共有しながら、これからの里山のデザインができたらと考えています。”

ゆるやかに、丁寧に紡ぐ漆との未来
日本の里山には、ただ眺めて楽しむだけでなく、人々の暮らしを支え、長い時間を共に歩んできた木がたくさんあります。その代表格が漆です。
森と人の関係を、これからどう紡いでいくのか。「猪苗代漆林計画」が示してくれたのは、「ゆるやかに還す」という、時間をかけた優しい選択でした。
“耕作放棄地に漆の木を植え、百年後には森に還していく。そのプロセスの中で、人々が集い、学び、つながりを育んでいく。これは単なる植林活動ではなく、里山と工芸、自然と人の営みを、もう一度丁寧に結び直す試みです。”
と話す貝沼さん。
“縄文時代から現代までの長い時間、日本人は漆という樹木と共に生きてきました。その関係が途切れかけている今だからこそ、まずは土に触れてみる、それが百年先…一万年先の森をつくる第一歩になると信じて活動しています。”

また、「猪苗代漆林計画」のもうひとつの特徴として挙げられるのが、「開かれた漆林」であること。季節に応じて植樹イベントや植栽地ツアーなどを開催し、地域内外の多様な方とのつながりを大切にサポーターの広がりをつくっています。
経験がなくても大丈夫。地域の職人や農家さんと一緒に、15年後に広がる漆林を夢見ながら一本の苗木を植える時間は、きっとあなたの中に小さな循環を生み出すはずです。そして、今日あなたが植えた一本が、未来の職人の仕事を支え、誰かの暮らしを豊かにしていくかもしれません。
「苗木を一緒に植える」。その一歩が、失われかけた里山の物語を未来へとつないでいきます。ぜひ、みなさんも参加してみませんか。(参加できるイベントやツアー情報は下記のSNS等をチェックしてみてください。)

文章:Forest Styleナビゲーター養成講座Bチーム
INFORMATION
猪苗代漆林計画(いなわしろ うるしりん けいかく)
Instagram:https://instagram.com/inawashiro_urushi/
公式LINEアカウント:https://lin.ee/qa0aZHR
HP:https://inawashiro-urushi.jp/
E-mail:inawashiro.urushi@gmail.com
Forest Styleナビゲーター・プロフィール

貝沼 航(かいぬま わたる)
漆とロック(株)代表/猪苗代漆林計画
1980年福島県生まれ。会津を拠点に20年近く漆器のプロデューサーとして活動。触覚に着目した漆器ブランド「めぐる」や、漆林づくりと連動した「めぶく」を展開。漆の森づくりから器の製作・販売まで一貫して手掛け、漆器のある暮らしを全国に伝えている。
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